演 目
自転車と少年
感想/梶 司


アウトサイダーの感想

 
初めて観た一人芝居、作・森下誠、演出・村松幹男、役者=作者の熱演に感動した。野球少年が下級生をバットで殴り殺し、自転車に乗って北へ向って(富山、新潟、山形、秋田……)走り続ける。ラストシーンで自転車乗りを教えてくれた母が幻影で現れ、ボール投げで遊び、月の夜に彼はバットで殴られ死に至る。演劇に関してアウトサイダーの私は話の筋をざっと以上のように理解した。
 この芝居には様々なことを考えさせられる。率直にいって、観劇後、暗く重苦しかった。息苦しかったといってもいい。若い時であれば、あるいは真面目に、深刻に人生を考えてこの演劇に魅入ったかもしれない。しかし、この歳(70歳)になると、役者の演技には敬服するが、ストーリーには何故か感激しなかった。
 こんな私の感想は一体何故だろうと考えた。理由は意外と簡単、観て面白いもの、爽やかな気分になるもの、というのが今の私の演劇に対する期待だ。その規準に照らして合致していないというだけの話だ。
 現代世相を反映したこの種の演劇は今の若者にどの様に受け止められているのだろうか。同感者が多いのだろうか。とすれば、どのように演じられるべきなのかだが、一人芝居に無理はなかったか。社会は複数の人間で構成されているのだから、一人の少年の生き方も複数の人間の中から生まれる。とすれば、この演劇も複数の役者でした方がよくはなかったか。様々な考え方の違いを一人の人間で処理しようとしたところに無理はなかったか。
 一少年の生き様の描写なら、講談、落語のように語りのほうが観客には理解し易くはなかったか。演劇でそれができるかどうか試しかったのだろうか。
 この演劇で訴えたかったものは一体何か、を考えてみる。自転車でひた走る少年の姿、それは母の期待か、自分の信念か。野球仲間の落伍する友人への思いやり。有望新入生を虐める下級生殺しの正義感。メモを取りながら北へ向かう自転車はその罪からの逃亡の姿か、単なる走行記録か。ラストシーンの母の幻影、懐かしい思い出、しかし、目的地を目の前にして母(?)のバットで死に至る。これは断罪か、死への少年の願望か。もしかしたら、走り続けて単に打ちのめされた姿か。各場面の様々な観方の可能性、それが演劇の面白さだ、とも言えそうだが、私の感覚には馴染まない。色々なことを考えさせられると観ているほうは頭が混乱し疲れてしまう。人生色々あるのは自明のことなので、その中の一断面をスパッと切り取って欲しかった。
 この演劇を観た後、三人で酒を飲みながら語り合った。観方は三人三様。こんな感想文を書けたのは、意見の違いを楽しく語り合えたからに他ならない。それにしても、この演劇を観て、青春時代に人生論を侃侃諤諤やっていた頃を思い出し気分的に若返ったことを付け加えておきたい。